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夏玉(三)

2012.05.02.Wed.00:00


ぐっすりと睡眠を摂ったおかげで、翌朝の目覚めは快適だった。

半年間に沈殿した精神の澱のような物が、一晩ですっきり消え去った感じだ。

tomokoが薦めてくれた湯治は正解だった。

僕は浴衣の紐を締め直し、タオルと歯ブラシを持って、機嫌良く部屋から出た。

廊下の先で女将がこちらに背を向けて屈み込み、雑巾で何かを拭っていた。

「おはようございます」

僕が声を掛けると、

「あ、おはようございます」

笑顔で振り向いて、

「踏まないように気をつけてください。 今、拭き取りますから」

女将が指差した僕の足元に、昨晩の夕餉に出たイクラの塊が落ちていた。

「夏になると出てくるんです」

女将が雑巾を持ったまま立ち上がり、言訳をする様な口調で軽く頭を下げた。

「えっ?」

僕は意味が判らず女将の表情を窺った。

そして足元に落ちている赤い粒々の塊に視線を戻した。

どう見てもそれは昨晩食べたイクラと同じ物だった。

「どういう意味ですか?」

「どういう意味って・・・」

戸惑ったような表情で上目づかいに僕を見る女将に向かって、僕はその物体を指差して、

「これは昨晩の料理に出たイクラではないのですか?」

「まさか。 昨晩はイクラなどお出ししていません。 こんな山奥で新鮮なイクラなど手に入りません。 お客様にお出ししたくとも出来ませんわ」

女将は済まなそうに言った。

「では、これは一体何なのですか?」

混乱した頭で問いかける僕に、女将は答えた。

「蛾の卵です。 この辺りでは夏玉と呼んでいるんですけど」

「なつだま?」

「はい。 この辺りの山にはオオアカマユガという巨大な蛾が多いんです。 その蛾は、腐りかけた樹の割れ目に赤い卵の塊を産み付けます。 この旅館は古い建物なので、天井板の隙間に卵を産み付けられるんです。 たいがい孵化して去って行くのですが、時々、卵の状態で天井からぼとりと落ちて来ることがあるんです。 産卵期の夏場は、廊下や畳を汚すので困るんですよ。 お見苦しい物をご覧に入れて申し訳ありませんでした」




**********


東京に帰ってから、僕は以前ほどイクラを好まなくなった。

むしろ避けるようになった。

良く見ると中で何か蠢いている様に見える半透明の粒々のぬめり具合や、口の中でぷちっと潰した時の青臭い芋虫の体液の様な匂いが、僕の脳の中にいつまでも不快な記憶として残留していたのかも知れない。

昼食時にイクラ丼を注文する事が無くなり、酒のつまみにイクラを買い込む事も無くなった。
寿司屋に行ってもイクラは食べない。

魚卵類全般が苦手になった。

tomokoにその話をすると、それは健康の為に良いことね、と微笑んだ。

彼女は何時でも僕の身を案じている女だ。

数カ月後の再健診でコレステロール値は正常に戻っていた。

翌年の春、僕はtomokoと結婚した。

あの女将がtomokoと同じ聖縄女学院テニス部出身で、二人が姉妹のように何でも心配事を相談しあう仲であることは披露宴の席で知った。




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