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夏玉 (縦書き)

2012.07.11.Wed.19:00

     一

 その旅館は鬱蒼うっそうと茂った樹林に囲まれた狭い平地にぽつねんと建っていた。
 長屋の様な木造平屋で、古びているという表現を通り越して廃屋と云うに近い。
 パイプ状の煙突から立ち昇っている白い蒸気により、辛うじて温泉宿であることが判る。
 秘境の一軒宿と言えば聞こえが良いが、要するに県境の山奥で極端に交通の便が悪く、客足が途絶えた廃業寸前の温泉宿と言った按配だ。
 東京を昼過ぎに出発して車で四時間余り。
 上りの山道に差し掛かってからは未舗装の狭い曲折が続き、一人旅だから運転を代わる者もいないので、若い僕でもハンドルを握りっぱなしの肩が凝った。 早いところ温泉に浸かってビールを飲みたい。
 樹林に夕陽が遮られ、早くも薄暗くなった空き地に車を止めて降り立つと、カナカナカナというひぐらしの大合唱が頭上から降り掛かる。
 民家の格子戸の様な玄関を開けて中に入ったが、人の姿は見当たらない。
 「誰かいませんか?」
 靴脱ぎの横に狭い帳場があるだけでロビーなどといった洒落たスペースは無く、小上りから先は黒光りした板張りの狭い廊下が奥に続いている。
 電灯が点いていないので薄暗くて奥の様子が判らない。
 「誰も居ないのですか?」
 再度、大声で奥に向かって問い掛けると、暗い廊下の奥にぼうと白い姿が浮かび上がった。
 段々近付いて来るに従って、それは薄鼠色の着物に紅色の帯を締めた若い女性だという事が判った。
 「お客様でしょうか?」
 透き通った声で問いかける容貌を間近で見ると、以前の僕なら口説いてみたくなる様な色白の和服美人だ。
 しかし今の僕には朋子という可愛い婚約者がいる。
 それに此処には静養の為に来たのだ。
 「今日一泊の予約をした者です」
 僕が自分の名前を伝えると、
 「お待ちしておりました。 どうぞ、お上がりください」
 亡くなった祖父母の跡を継ぐ為に東京から戻って来た若い女将おかみが細々と営む温泉宿だという朋子の話は本当らしい。
 他に使用人は居ないのだろう、彼女自らの案内で進むと廊下の両側に部屋が二つずつあり、右奥の八畳間に通された。
 廊下の突当りは浴室と調理場の様だ。
 今日の客は僕一人なのだろう、他の部屋は真っ暗で何の物音もせず人の気配が無い。
 日々東京の喧騒けんそうに囲まれ、生き馬の目を抜く様な金融業界で神経を張り詰めている僕にとって、この静寂と孤独は何物にも代え難い保養になるだろう。
 朋子はいつでも僕と行動を共にしたがる可愛い女だが、珍しく今回は一人旅を薦めてくれた。
 このひなびた温泉宿を予約してくれたのも朋子だ。
 彼女の眼には、大銀行に就職して半年間全力で仕事をして来た僕が、自分で思う以上に憔悴して見えていたのかも知れない。


     二

 鉄味のする温めの鉱泉に浸かり、一汗流して浴衣姿で部屋に戻ると、既に座卓の上に夕餉の皿が並べられていた。
 女将おかみが部屋を覗き、
 「田舎料理なものでお口に合いますかどうか」
 そう言いながら僕が頼んでいたビールを畳に置いて栓を抜くと、
 「ごゆっくり」
 慎ましやかに頭を下げて部屋を出て行った。
 少し会話を交わしかったが、下心がある様に思われてもいけないので引き止めなかった。
 卓上には山菜と川魚を素材とした素朴な料理の皿が並んでいた。
 一通り眺め廻した僕の視線が止まり、思わず頬が緩んだ。
 一塊ひとかたまりのイクラが漬物皿の隅に無造作に載せられ、薄透明の赤い粒を艶々と輝かせていたからだ。
 早速冷えたビールを飲みながら、箸で数粒摘んで口に入れた。
 薄い皮の弾力を楽しみながら一粒ずつ丁寧に噛み潰していくと、微かに潮の香りがする液体が口腔内に拡がり、僕は満足した。
 僕は魚卵類が好きだ。
 イクラ、数の子、たらこ、キャビア、そういった類いだ。
 わけてもイクラは大好物だった。
 しかし、子供の時分や貧乏学生の頃は食べたくともなかなか機会が得られなかった。
 渇望の時間が長かった反動だろうか、就職して自由に使える給金を得ると、僕は急激にイクラを食べるようになった。
 好物を口に入れる事で仕事のストレスを解消していたのかも知れない。
 職場の傍に安くて旨いイクラ丼を喰わせる食事処があったのも幸甚だった。
 僕は毎日欠かさず通い、昼食にイクラ丼を注文した。
 夜は夜で仕事帰りに駅前のスーパーでイクラのパックを購入し、一人暮らしのマンションの部屋でイクラをつまみにビールを飲み、イクラ茶漬けを作って晩飯代りにした。
 休日は昼頃起きてコンビニのたらこお握りを喰い、晩は回転寿司に行くとイクラと数の子の握りを腹に入れた。
 そんな生活を半年続けた後、銀行の定期健康診断があり、結果が悪かった僕は医師に呼び出された。
 「貴方あなたは魚卵類の食べ過ぎです。 悪性コレステロール値が異常に高い」
 医師の表情は穏やかだったが、口から出る言葉は辛辣だった。
 「食べたければ食べても結構。貴方の人生ですから。しかし、今の食生活を続けたら、必ず体を壊しますよ?」
 話を聞いた朋子は大変心配した。
 僕も反省し、魚卵類の摂取を減らそうとしたが、こうして膳に出されると嬉しくて残さず食べてしまう。


     **********


 岩魚の塩焼きもウドの酢味噌和えも旨かった。
 タラの芽の天麩羅も蕨のお浸しも新鮮だった。
 僕は料理を綺麗に平らげ満腹になった。
 腹ごなしにもう一度風呂に向かい、静謐せいひつの岩風呂に十分手足を伸ばしてから部屋に戻ると、膳が下げられ布団が敷かれていた。
 糊の効いたシーツの上にごろりと横になり朋子にメールを送ろうとしたが圏外で通じない。
 天井から吊るされた旧式の蛍光灯を眺めながら彼女のことを考えた。
 初めて見掛けたのは五年前、彼女の母校聖縄女学院で起きた殺人事件の関係者が呼ばれた警察の待合室で、彼女はまだ白いセーラー服姿だった。
 僕は浪人していて、彼女は高三だった夏のことだ。
 濃紺の衿のせいかフェルメールの少女を連想させる知的で優しげな横顔に、僕の心は一気に引き寄せられた。
 彼女はその場に僕が居たことを覚えていない。
 そして僕は、初めて見た時からずっと彼女のことが好きだった事は、照れくさくてまだ口に出していない。
 そんな事を考えながら、雨水が滲みた部分が不規則に黒ずんでいる天井板の所々にある亀裂を眺めているうちに、鉱泉で芯まで温まった身体はビールの酔いと運転の疲労に包まれ、いつしか僕の目蓋は閉じていた。
 その晩は夢も見ない程、深い眠りだった。


     三

 ぐっすりと睡眠を摂ったおかげで、翌朝の目覚めは快適だった。
 入社以来半年間で沈殿を重ねた精神のおりのような物が、一晩であっさり消え去った感じだ。
 頭の中はすっきりと晴れ渡り、寝覚めると同時に空腹感まで湧いてきた。
 朋子が薦めてくれた人里離れた山奥での気分転換は正解だったようだ。
 僕は浴衣の前を整えて紐を締め直し、タオルと歯ブラシを持って機嫌良く障子を開けて部屋から出ようとした。
 廊下の先を覗くと、女将がこちらに背を向けて屈み込み、雑巾で何かを拭っていた。
 「おはようございます」
 僕が声を掛けると、
 「あ、おはようございます」
 女将は笑顔で振り向いて、
 「踏まないように気をつけてください。 今、拭き取りますから」
 僕の足元を指差した。そこには昨晩の夕餉に出たイクラのかたまりが落ちていた。
 「すいませんね」
 女将が雑巾を持ったまま立ち上がり、謝罪するように軽く頭を下げた。
 「夏になると出てくるんです」
 「えっ?」
 僕は意味が判らず女将の表情を窺った。
 そして足元に落ちている赤い粒々の塊に視線を戻した。
 どう見てもそれは昨晩食べたイクラと同じ物だった。
 「夏になるとって、どういう意味ですか?」
 「どういう意味って・・・」
 僕の質問に心底戸惑ったような表情で、上目づかいに僕を見る女将に向かって、
 「これは昨晩の料理に出たイクラではないのですか?」
 僕はその物体を指差して確認した。
 「まさか。 昨晩はイクラなどお出ししていません。こんな山奥で新鮮なイクラなど手に入りません。お客様にお出ししたくとも出来ませんわ」
 女将は済まなそうに言った。
 「えっ・・・、イクラでなければ、これは一体何なのですか?」
 混乱した頭で問いかける僕に、女将は答えた。
 「蛾の卵です。 この辺りでは夏玉と呼んでいるんですけど」
 「な、なつだま?」
 「はい。この辺りの山にはオオアカマユガという巨大な蛾が多いんです。その蛾は、腐りかけた樹の割れ目に赤い卵の塊を産み付けます。この旅館は古い建物なので、天井板の隙間に卵を産み付けられるんです。たいがい孵化して去って行くのですが、時々、卵の状態で天井からぼとりと落ちて来ることがあるんです。産卵期の夏場は、廊下や畳を汚すので困るんですよ。お見苦しい物をご覧に入れて申し訳ありませんでした」


     **********


 東京に帰ってから、僕は以前ほどイクラを好まなくなった。
 むしろ避けるようになった。
 良く見ると中で何か蠢いている様に見える半透明の粒々のぬめり具合や、口の中でぷちっと潰した時の青臭い芋虫の体液の様な匂いが、僕の脳の中にいつまでも不快な記憶として残留したのだろう。
 昼食時にイクラ丼を注文する事が無くなり、酒のつまみにイクラを買い込む事も無くなった。寿司屋に行ってもイクラは食べない。
 そのうち魚卵類全般が苦手になった。
 朋子にその話をすると、良かったじゃない、それは健康の為に良いことよ?と嬉しそうに微笑んだ。
 心の底から喜んでいる表情に少々驚かされたほどだ。
 それほど彼女は、いつでも僕の身を案じている女なのだと思い、嬉しかった。
 魚卵嫌いになった効果はてきめんで、数か月後の再健診で血中コレステロール値は見事に正常に戻っていた。
 翌年の春、僕は朋子と結婚式を挙げた。
 あの旅館の女将が朋子と同じ聖縄女学院テニス部出身で、同期の二人は姉妹のように何でも心配事を相談しあう仲であったことは披露宴の席で知った。 勿論オオアカマユガなどという蛾はいない。

          了
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