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夏玉(一)

2012.04.28.Sat.10:00


その旅館は、鬱蒼と茂った樹林に囲まれた狭い平地にぽつねんと建っていた。

長屋の様な木造平屋で、古びているという表現を通り越して廃屋と云うに近い。

パイプ状の煙突から立ち昇っている白い蒸気により、辛うじて温泉宿であることが判る。

秘境の一軒宿と言えば聞こえが良いが、要するに県境の山奥で極端に交通の便が悪く、客足が途絶えた廃業寸前の温泉宿と言った按配だ。

東京を昼過ぎに出発して車で四時間余り。

上りの山道に差し掛かってからは未舗装の狭い曲折が続き、一人旅だから運転を代わる者もいないので、ハンドルを握りっぱなしの肩が凝った。

早く温泉に浸かってビールを飲みたい。

樹林に陽が遮られ、早くも薄暗くなった空き地に車を止めて降り立つと、蜩の大合唱が頭上から降り掛かる。

民家の格子戸の様な玄関を開けて中に入ったが、人の姿は見当たらない。

「誰かいませんか?」

靴脱ぎの横に狭い帳場があるだけでロビーなどといった洒落たスペースは無く、小上りから先は黒光りした板張りの狭い廊下が奥に続いている。

電灯が点いていないので薄暗くて奥の様子が判らない。

「誰も居ないのですか?」

再度、大声で奥に向かって問い掛けると、暗い廊下の奥に茫と白い姿が浮かび上がった。

段々近付いて来るに従って、それは薄鼠色の着物に紅色の帯を締めた若い女性だという事が判った。

「お客様でしょうか?」

透き通った声で問いかける容貌を間近で見ると、以前の僕なら口説いてみたくなる様な色白の和服美人だ。

しかし今の僕にはtomokoという愛しい婚約者がいる。

それに此処には静養の為に来たのだ。

「今日一泊の予約をした者です」

僕が自分の名前を伝えると、

「お待ちしておりました。 どうぞ、お上がりください」

亡くなった祖父母の跡を継ぐ為に東京から戻って来た若い女将(おかみ)が細々と営む温泉宿だというtomokoの話は本当らしい。

他に使用人は居ないのだろう、彼女自らの案内で進むと廊下の両側に部屋が二つずつ有り、右奥の八畳間に通された。

廊下の突当りは浴室と調理場の様だ。

今日の客は僕一人なのだろう、他の部屋は真っ暗で何の物音もせず人の気配が無い。

日々東京の喧騒に囲まれ、生き馬の目を抜く様な金融業界で神経を張り詰めている僕にとって、この静寂と孤独は何物にも代え難い保養になろう。

tomokoは何時でも僕と行動を共にしたがる可愛い女だが、珍しく今回は一人旅を薦めてくれた。

この鄙びた温泉宿を予約してくれたのもtomokoだ。

彼女の眼には、大銀行に就職して半年間、全力で仕事をして来た僕が些か憔悴して見えていたのかも知れない。

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